2005年12月31日

「僕右向きたくない!」

母親達の中から、囁(ささや)きが小波のように起った。「面白いお子さんですこと」と云う一つの声が、咎(とが)めるようにお咲の耳を撃った。
 先生は体をこごめて何か云った。そして、「好い子だからね」と云いながら、頭を撫でて、両手で右を向かせた。先生の顔には、始終微笑が漂っていた。手やわらかであった。が、屈んでいた体を持ち上げた彼の眼――詰問するように母親達の群へ投げた眼差し――を見た瞬間、お咲は直覚的に或ることを感じた。
「もう憎まれてしまった!」
「あれが始まりだったのだ」とお咲は思い廻らした。
「何もお前ばかり悪いんじゃあないわねえ」いない咲二を慰めるようにつぶやいた彼女は涙を拭いた。
 翌日は大変暑かった。が押してお咲は出かけた。毎度の苦情――注意が散漫だとか、従順でないとかいうこと――が、並べられた。そして注意しろと幾度も幾度も繰返された。
 妙に念を入れた、複雑な表情をして云った気をつけろ、注意をしろという言葉の中から、彼女は何か心にうなずいた。帰途に買った一ダースの靴下を持って、翌(あく)る日遠いところを先生の家まで行って、とっくりと咲二のことを頼んできたのである。なぜ早く気が付かなかったろうというような軽い悔みをさえ感じた。
 二日つづけて、暑い中を歩いたことは、お咲の体に悪かった。帰宅するとまもなく、彼女は激しい悪寒(さむけ)に襲われ、ついで高い熱が出た。開けている下瞼の方から、大波のように真黒いものが押しよせて来て暫くの間は、何も、見えも聞えも、しないようになった。押えられ押えられしていた病魔が、一どきに彼女を虐(さい)なみにかかったのである。
 浩が驚いて駈けつけたときには、お咲は熱と疲労のために、病的な眠りに落ちていた。
 熱の火照(ほて)りで珍らしく冴えた頬をして、髪を引きつめのまま仰向きに寝ているお咲の顔は、急に子供に戻ったように見える。荒れた肌、調子を取っている鼻翼の顫動、夢に誘われるように、微かな微笑が乾いた唇の隅に現われたり、消えたりした。浩は、陰気な火かげで、かつて見たことのなかったほど活動している彼女の表情を見守った。彼女の持っている、すべての美くしい魂が、この貧しくきたない部屋の中で、燃え輝やいているように彼は感じた。紫色の陰をもって、丸く小さく盛り上っている瞼のかげで、いとしい、しおらしい姉の心はささやいているようであった。
「ほんとうに、可哀そうな私共! 私達の気の毒な一族……。けれども、今私が死ななけりゃあならないということを、誰が知っているの?」
 あやしむような、魅惑的な微笑が、彼女の唇に浮んで、また消えた。

名古屋風俗
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2005年12月29日

浩が買って来た人参を飲んだり

評判の名灸に通ったりしても、ジリジリと病気は悪い方へ進んで行った。普通なら大病人扱いにされそうに※れたお咲が、せくせくしながら働いているのを見ると、浩は僅かばかりの雪を掌にのせて、輝く日光の下で解かすまい解かすまいとしながら立たせられているような心持になった。目に見えて姉の体は、細く細くなって行く。けれども自分の力ではどうにもならない。大きな力が、勝手気ままに姉の体を動かして行くのを、止めたとてとても力が足りない。ただ涙をこぼしたり思い悩んだりするほかしようのない自分等が、浩には辛かった。激しい波浪と闘いながら、辛うじてつかまり合っているような自分達のうちから、また一人攫(さら)われて行くということを、考えてさえゾッとしずにはおられなかった。自分と年のあまり違わないただ一人の姉、女性という、同情の上に憧憬的な敬慕を加えて感じている者の上に、死を予想するのは堪らない。彼は死なせたくなかった。ほんとうに生きていて欲しかった。出来るだけ姉に力をつけながら、浩はつくづく自分がふがいないというように感じたりしたのである。
 家の中を歩くのさえ大儀になってからはお咲も、もう死ぬときがきたと感じた。
「死ななけりゃあならないんだろうか?」
 お咲は、誰にともなく訊ねた。
「私が死ぬ? 今?」
 動けなくなる前に、せめて咲二の平常着(ふだんぎ)だけでも、まとめたいと、お咲は妙にがらん洞になったような心持を感じながら、鍵裂きを繕ったり、腰上げをなおしたりした。学校へも一度は是非行って、よくお願いもしておきたいと思っていると、或る日、先生の方から咲二に、呼び出しの手紙を持たせてよこした。一月に一度か二度は、きっと学校に呼ばれて、お咲は、人並みでない咲二について、親の身になれば情ない、いろいろの小言を聞かなければならなかったのである。

 四月の第一日。R小学校の運動場には、新入学の児童が多勢、立ったり歩いたりしていた。最後に教室から出されて、小砂利を敷きつめた広場の一隅に並ばされた一群の中には、紺がすりの着物を着た咲二が混っていた。付き添ってきた母親達の傍に二列に立ちどまらせると、「皆さん! 右と左を知っていますか? お箸を持つのはどっちでしょう?」と先生が笑いながら訊ねた。
「先生僕知ってます!」
「僕も!」
「僕も知ってます!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
 元気な声が、蜂の巣を掻き立てたように叫んだ。咲二も何時の間にか知っていた。お咲は有難かった。
「それじゃあ、今先生が右向けえ右! と云いますから、そうしたら皆さん右を向いて御覧なさい。さあよしか、右向けえ、右!」
 子供達は機械のように、体中で右向けをした。たくさんの足の下で、崩れる小石のザクザクという音、楽しげな笑声が、明るい四月の太陽の下で躍(おど)った。
 けれども! 咲二だけは動かない。
 お咲は目の前で、青い空と光る地面とが、ごちゃ混ぜになったような気がした。頭がひとりでに下った。
 振返って、この様子を見た先生は、意外な顔をして訊ねた。
「なぜ右を向かないの?」
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2005年12月28日

   二

 お咲の体工合の悪いのは、昨日今日のことではない。じき体が疲れるとか、根気がなくなったとかいうことは、今更驚くほどでもないけれども、いつからとなくついた腰の疼(いた)みが、この頃激しくなるばかりであった。上気せのような熱が出たりするようになると、お咲は起きているさえようようなのが、浩にもよく分った。心を引き締めて、自分を疲らせたり、苦しませたりするものに、対抗して行くだけの気力が、姉の体からは抜けてしまったらしい。ちょうど亀裂(ひび)だらけになって、今にもこわれそうな石地蔵が、外側に絡みついた蔦の力でばかり、やっと保(も)っているのを見るような心持がした。実際お咲にとっては、小さいなりに一家の主婦という位置が、負いきれない重荷となってきたのである。
 人のいない二階の隅で、部屋中に輝やいている夕陽の光りと、チラチラ、チラチラ、と波のように動いている黒い葉影などを眺めながら、お咲は悲しい思いに耽った。若し自分が死ぬとなれば、否でも応でも遺して行かなければならない息子の咲二のことを思うと、胸が一杯になった。ようよう今年の春から小学に通うようになりはなっても、何だか他人に可愛がられない子を、独り置いて逝(ゆ)かなければならないのかと思うと、死ぬにも死なれない気がした。一足、一足何か深い底の知れないところへ、ずり落ちかかっているようで、お咲は気が気でなかった。
「咲ちゃん、母さんが死んじゃったらどう?」
 訳の分らない顔つきをしている息子を、傍に引きよせながら、お咲は淋しく訊ねた。そして、ひそかに期待していた通りに、
「死んじゃあいや!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
と、はっきり一口に云われると、滅入っていた心も引き立って、「ほんとうにねえ。今死んじゃあいられないわ」と思いなおすのが常であった。小さい手鏡の中に荒れた生え際などを写しながら、
「まあずいぶん眼が窪みましたねえ。こんなになっちゃった……。死病っていうものは、傍(はた)から見ると、一目で分るものですってねえ。ほんとにそうなんでしょうか? あなたどうお思いなすって?」
と云ったりした。
「私なんかもう生きるのも死ぬのも子のためばかりなんですものねえ、咲ちゃんのことを思うと、ちょっとでも、もう死んだ方がましだと思ったりしたことが、こわくなるくらいよ」
京都風俗
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2005年12月26日

浩の一族は、

実際幸福に見離されたように見えた。多勢生れた同胞(きょうだい)も、皆早く死んで自分と遺ったただ一人の姉のお咲も決して楽な生活はしていない。嫁入先は、相当に名誉のあった仏師だったのだそうだが、当主――お咲の良人――恭二は見るから生存に堪えられなそうな人であった。かえって隠居の仁三郎の方が、若々しく見えるくらい衰えている。もとから貧乏なのだが、お咲が十六のとき、娘の婚期ばかり気にやんでいた母親が、自分の身分と引きくらべて何の苦情なく、嫁入らせてしまったのである。この縁を取り逃したらもう二度とはない好機らしく思われたのであった。翌年咲二が生れてこのかた、お咲の全生命は子供に向って傾注され、生活のあらゆる悩ましい思いは、子供に対する愛情でそのときどきに焼却せられながら、どうやら今日まで過ぎて来たのである。派手な、明るい世間から見れば、ざらにある、否それより惨めな家に、相当に調(ととの)った容貌を持ち、心も優しい姉が、埋もれきった生活をしているのを見るのは、浩にとって辛かった。情ない心持がした。が、或る尊さも感じていた。体の隅から隅まで、憫(いじ)らしさで一杯になっているように見える彼女の、たださえよくはなかった健康状態が、このごろはかなり悪い。どうしても只ごとでないらしいのは、彼女を知る者すべてにとって、憂うべきことである。病気になられるには全く貧乏すぎる。
 姉さんにも、自分等にとっても辛すぎる。可哀そうすぎる……。
 浩は「案じられ申候」という字を見詰めながら心の中につぶやいたのである。
 何物かに引きずられるように、思いつづけていた彼の心は、突然起った幾つもの叫び声に、もとへ引き戻された。
「うまいうまい! なかなか上手だ!」
「ネ、これなら……ホラそっくりだろう!」
「帰ってくると、また火の玉のようになって怒るぜ!」
「かまうもんかい! そうすると、見ろそっくりこのままの面になるからハハハハハ」
「フフフフフフフ」
 振り向くと、笑いながらかたまっている顔が、石鹸のあぶくを掻きまわしたように見える間から、今いつの間にか作られたと見える一つの滑稽な人形がのぞいている。
 括(くく)り枕へ半紙を巻きつけた所には、擬(まが)うかたもない庸之助の似顔が、半面は、彼がふだん怒ったときにする通り、眉の元に一本太い盛り上りが出来、目を釣り上げ、意気張って睨(にら)まえている。半面は、メソメソと涙や鼻汁をたらして泣いて、その真中には、どっちつかずの低い鼻が、痙攣(けいれん)を起したような形で付いていた。庸之助の帽子をかぶり、黒い風呂敷の着物を着せられたその奇妙な顔は、浩を見ながら、
「どうしたら好かろうなあ……」
と歎息しているように見える。浩は苦笑した。おかしかった。が、心のどこかが淋しかった。賑やかなうちに妙に自分が、「独りだ」とはっきり感じられたのであった。
渋谷風俗
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2005年12月25日

が、青年となった浩には、

ただK商店の忠実な一使用人というだけでは、満足出来ない何か或るものがその衷心に起った。毎日をさしたる苦労もないかわり、また跳り上るほど大きな歓びもなく、馴れた事務を無感激にとっているだけで、自分の生活を全部とするには、不安な頼りない心持があった。彼の生れつき強い読書慾は、心に不満のあった彼を文学で癒すように導いた。浩は十七になった年から、盛に読み出した。僅かな時間を割(さ)いて図書館に通った。そして、ほんとに自分を育てて行く力というものを、自分自身のうちに発見すると同時に、すべてにおいて「自分」の自由でない毎日の生活が、ますます満足出来なかった。彼は決して贅沢(ぜいたく)なことはのぞまないが、もう少し静寂な時間と、自分独りの時間が欲しかった。けれども浩はよく働いた。真面目に上役の命令に服した。若し考えることを望むなら、それより先に食べる方を安全にしておく必要がある。それ故、目下生活状態を変えることは、不可能であった。まだ十九の、この春学校を出たばかりの者に、十五円ずつ支給してくれる位置は、そうどこにでも転がっていないことは解っていたのだ。いろいろ先のこと、また現在のことを考えると、浩は、絵葉書の集めっくらをしたり、気どった――浩には少しもよいとは思えない――先のムックリ図々しく持ち上った靴などを鳴らしていられなかった。店でくれる黒い事務服の古くなったのを、彼は外出しないときは着ることにしていた。僅かの時間を出来るだけ、利用しようと努めた。それが、変り者と呼ばれる原因である。が、彼はそんなことに頓着するほどの余裕がなかった。制せられない知識慾――押えられる場合が多いにつれて、反動的に強くなりまさってくる――は、ときどき彼に苦しい思いさえさせたのである。
 浩が、暇を惜しんで勉強するとか、月給の中から、ほんの僅かずつでも、国許の両親へ送っているということなどは、彼がくすぐったいように感じる賞め言葉を、ますます増させる材料になった。何ぞというと、引き合いに出される。それも、他の多くの若い者の励ましのためだと余りはっきり解っているときなどは、彼は嬉しいどころか、かえって不愉快になりなりした。が、ともかく一族の中では、どのくらい幸運な部に属する自分か分らないと思って、彼は一生懸命に自分のほんとの道を拓(ひら)くべき努力をつづけた。けれども、ときには彼の心も情けないと感じることがあるくらい、好意の枷(かせ)が体中に、ドッシリと重く重く懸っていたのである。
熊本風俗
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2005年12月24日

家柄からいえば

孝之進は名門の出である。けれども、若いときから、生活の苦味ばかりを味わってきた。ちょうど彼が出世の第一歩を踏み出そうとしたときに起った、政治上、社会上の大津浪が、家老という地位をも、先祖伝来の家禄をも、さらって行ってしまったので、彼の一生はもうそのときから、すべて番狂わせになった。文部省の属吏を罷(や)められてから、村長を勤めたことがあるというだけの履歴は、内障眼(そこひ)で社会的の仕事から退かなければならなくなってからの、彼等一家の生活を保障するには、何の役にも立たなかった。
 世間並みの立身を望んで焦るには、孝之進は年をとりすぎたし、また不治の眼疾をどうすることも出来なかった。で、求めて得られなかったあらゆる栄誉、名望、目の醒めるような出世を、ひたすら息子の浩にのみ期待した。けれども、完全に順序だった教育をするほどの資力がないので、思いあまった孝之進は、或る知己に頼んで、浩を、ガラスや鉄材の輸入を専らにしているK商店に入れてもらった。五年前、まだ十四だった浩は、独りで上京し、自分で自分を処理して行かなければならない生活に入った。学費から食料までK商店で持って、或る職業教育を授ける学校に通わせてくれる代り、卒業すれば幾年か、忠実な事務員として報恩的に働くべき条件が、附随していたのである。
 三年四年。小さいときから、いろいろなことに接してきた浩の心のうちには、さまざまな変化があった。善いことも、悪いことも、ごたまぜに、ただ彼が選ぶにまかされたような状態のうちにあって、彼の先天的の自重心、年のわりには鋭かった内省が、多少の動揺はもちろんあったが、彼を希望していた道に進ませて行った。そして、自分からいえばあまり喜ばれない心持の多かったときでも、周囲の者、特にたくさんの上役からは、いつでも正直な善い子供、若い者として認められていた。比較的、無口で落付いていることや、すべての服装が商店に育つ若い者にありがちな、一種の型から脱していたことなどが、彼をどこか他の者とは違った頭をもっているらしく思わせたということもある。もう五十を越している取締りなどは、「お前は、偉くなろうと思えば、きっとなれる質(たち)だ。うんと勉強をし、吉村さんのように主人が洋行させてくれるかもしれない」と激励するほどまでに、彼を可愛がっていた。従って、一日に一度、山の手の住宅から出かけてくるだけの主人も、店の若い者の中では、浩を一番有望な者だと思っていた。それに特別な関係――自分等で育てて一人前にしてやろうとするものが、かなり見どころある人間になってくるのを見る、先輩たちの心持――が、浩に対する信用とも、好意ともなって、表われてきたのである。
沖縄風俗
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2005年12月23日

日は輝けり

   一

 K商店の若い者達の部屋は、今夜も相変らず賑やかである。まぶしいほど明るい電燈の下に、輝やいた幾つもの顔が、彼等同志の符牒のようになっているあだ名や略語を使って、しきりに噂の花を咲かせている。
 けれども、変幅対と呼ばれている二人の若者は、いつもの通り、隅の方へ机を引き寄せて、一人は手紙を書き一人は拡げた紙一杯に、三角や円を描き散らしていた。「三角形BCEト、三角形DCFトノ外切円ノ交点ヲGトシ…………」
 崩れるような笑声が、広い部屋中の空気を震動させて、彼のまとまりかけた考えと共に、狭い窓から、広い外へ飛び出してしまった。若者は苦々しそうに舌打をして、上気(のぼ)せた耳をおさえながら鉛筆を投げ出すと、立って向うの隅にいるもう一人の処へ行った。
 彼は杵築(きづき)庸之助という本名で、木綿さんというあだ名を持っている。人間は黒木綿の着物と、白木綿の兵児帯(へこおび)で、どんなときでも充分だという主義を持っていて、夏冬共その通り実行していたからなのである。ときには滑稽だとほかいいようのないほど、馬鹿正直な、生一本な彼は、他の若い者の仲間からはずれた挙動ばかりしている。冗談も云わず、ろくに笑いもしない。徹頭徹尾謹厳だといわれたがっているように見られた庸之助は、或る意味の嫉視(しっし)と侮蔑から変物扱いにされていたのである。武士道の遵奉者であった。
「浩さん! 手紙か?」彼は仲間の上に身をかがめた。
「うん。もう君はお止めなのかい? まだいつもより早いんじゃあないか!」
「駄目だよ。奴等の騒で考えも何もめちゃめちゃだ。何があんなにおかしいんだ。娘っ子のように暇さえあれば、ゲラゲラ、ゲラゲラ、笑ってばかりいやがる」
 庸之助は、浩に対してよりも、もっと当つけらしい口調で云った。一つ二つの顔が振向いた。そしてもう一層の大笑いが、壁をゆするようにして起った。彼の口小言を嘲笑したのはいうまでもない。
「あれだ! 見ろ!![#「!!」は横1文字、1-8-75]」
「まあ君、そんなに怒ったって駄目だよ。宿直へでも行ったら好いじゃあないか、あすこならお爺さん一人で静かなもんだよ」
「なに好いよ。今夜は……誰れ? お父さんかい?」
「ああ手間ばっかりかかってね」
「姉さんのことでも云ってやるのかい。同胞(きょうだい)があると、お互に三人分も四人分も心配しなけりゃあならないねえ。結句僕のように独りっきりだと、そんな心配は要らないで、さっぱりとしている。まあ書き給え、僕は湯にでも行って来ようや!」
 浩は、片手で耳をおおうようにしながら、小学の子供の書く通りに、一字一字に粒のそろった、面の正しい字を書き出した。のろのろと筆を動かしてゆくうちに、彼の心持は次第に陰鬱になってきた。不幸な運命の、第一の遭遇者である彼の父、孝之進の、黒い眼鏡をかけた※(やつ)れた姿。優しい老母。気の毒な姉。
北陸風俗
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2005年12月22日

みさ子 (涙をこぼし)そうよ!

貴方には貴方の書斎がある[#「書斎がある」に傍点]。だから、そんなことをおっしゃれる。自分が、どんな大間違いをしているか、考えようともなさらないで、よく貴方は、そんなことがおっしゃれるわね。……私には……私には貴方っきりほか、ありはしないわ。何も、ありはしないわ。だからこそ、貴方になんか、相手にもされない苦しみをもするのじゃあないの。
奥平 (冷やかに)愛は、苦しい筈のものではないよ。愛し難い者を愛そうとするからだ。
みさ子 (首を振り)いいえ。いいえ。どれだけ、私が可愛いか、貴方が判って下さらないからよ。
奥平 ――私は、若し強いられたのなら、たとい、事実上過ちがあったとしても、許す。けれども自分から、自分の心も相手の心も翻弄する人間との関係は堪えられない。――苦しめられたくないのだ。――いくら、価値のない人間でも自分の魂の平安を守る位の権利は与えられているだろう。
みさ子 (涙と一緒に奥平の手を揺すり)ああ。貴方は恐ろしい方ね。言葉の裡にある真実を、ちっとも聞こうとはなさらない。ね、どうしたら、私の心がわかるの? どうしたら嘘を云ってはいないのがわかって?
奥平 事実が言葉と合致すれば。
みさ子 だから、さっきから云うじゃあないの? 私は――ああ(激しく泣く)云うのさえいやだわ!
奥平 人間には、言葉以上に微妙な世界があるものだ。まして、異性間の感情には。――あなたは、谷を愛していないと云う。或は、事実だろう。然し、一方に、私は、また、愛している事実も認めずにはいられない。(憤りをはくように)愛します、と誓った愛が嘘になる時もあるように、愛さない、という愛が、却って真実なこともあるのだ!
みさ子 ああ。ああ。こんなに愛しているのに。貴方には! こんなに、可愛いのに!

みさ子、泣きつつ、子供のように自分の額を、良人の手に擦りつける。

奥平 (苦々しげに)亢奮が、何の解決になるのだ。……

みさ子、頭を擡げる。良人を見、絶望でくい入るように、

みさ子 ああ、貴方は開かない扉(と)よ。叩いても、叩いても開かない扉(と)よ。――私はどうすればいいの?――人間は、言葉でほか、自分の心が表わせない。(烈しい歔欷(すすりなき)。)その言葉を信じられない時。――(蒼白な顔となり)昔の女の人は死にました。私が死ねなかったら――。貴方は、それ見ろ! とおっしゃること?(良人に、じりじりと迫る)それ見ろ! 谷を愛していたのだとおっしゃること?

奥平の手を掴み、そのまま凝固したように立ち竦む。恐ろしき寂寞。一秒……二秒……さっと  
幕。 


関西風俗
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2005年12月21日

奥平 (傍を向き)悲しいことに、

私も人間だから、自分と直接、関係のある者の行為には、心を支配されるのだ。
みさ子 ……(苦しそうな表情となる)……。
奥平 私は、就くものはつき、離れる者は時が来れば離れずにいないと思ったから、別に云いもしなかったのだが……。今でも、私は何の制限も、あなたに加えてはいないよ。断って置くが……
みさ子 (実に驚き)まあ、貴方! 何を思ってらっしゃるの? 何を感違いしてらっしゃるの?
奥平 何も、感違いなんかしていない。事実は、事実だ。
みさ子 (一層、良人の傍により)私が何をして? 貴方。――(思いつき)ああ、今私があんな大きな声をしたのを変に思っていらっしゃるんじゃあないこと? 何でもないのよ、あれは。谷さんが、今日は妙に感情的だから、もう散歩なんか一緒にするのは、いやよ、と云っただけなのよ。
奥平 (険しい眼付きをし)感情的には誰がしたのだ。
みさ子 (良人を仰ぎ)貴方!
奥平 独身の、あんな生若い男に、若い、結婚したばかりの女が、自分の生活の不満や苦痛を訴えるのは、何を意味するか。考えて見たら、誰にでも解るじゃあないか。
みさ子 (思いがけず。却って落付き)聞いていらしったの?――却ってよかったわ。でも――立ち聞きをなさるなんて――(消え入るように)何て方でしょうね。
奥平 英一君に聞いたのだ。
みさ子 (はっきりと侮蔑を感じ)あの人が? 何て云ったの?
奥平 そんなことを、今ここで再び繰返す必要はない。ただ――私は――僅かの間でも、あなたの良人であったことを気の毒に思うよ。適当な人間ではなかったのだ。少くとも、あなたの悦ぶ男ではなかったのだ。然し(刺すように)誰一人私にそのことを知らせてくれる者はなかった!
みさ子 (蒼くなり、良人の手を掴み)貴方! 後生だから、その変な、貴方の頭にあるものを棄てて頂戴! ひどい思い違いをしていらっしゃるわ。何ていうことだろう。私は、これっぽっちだって、谷さんなんか愛していやしなくってよ。
奥平 (疑い深く)どうしてそれが断言出来る? 自分が侮蔑し、価値を感じないものに、あなたは自分の苦痛を訴えるか? 下男に泣言が云えるか? 自分が、より好意を感じている者に対してでなければ、人間は、決して自分の弱点は示さないものなのだ。
みさ子 ――私は、ちっともそんな風には考えなかったわ。私の苦しみは、私の弱点? 私は、ただ、もとから種々なことを話して来た友達に、自分の心持ちを云っただけだのに。――
奥平 つまりそれほど、心の親しみが深いということになるのだ。離れ難く思うからこそ、どんなに境遇が変っても、その友情だけは、保って行こうとする。――(堪え難いように、ばしばしと)私は、はっきり云って置くがね、決してあなたの重荷となる積りはないのだ。私はいつでも、悦んで、あなたに自由を与える。よく考えて、遠慮はいらないから、自分の行きたい道を進めばよい。ああいうこともあった、と私は万事を、過去に埋めてしまおう。それが一番いい。私には――私の書斎がある。……
仙台風俗
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2005年12月18日

みさ子の声 いやよ!

奥平、英一、思わずぎょっとするところへ、みさ子、足早に出て来る。二人を見、

みさ子 まあ、貴方もいらしったの?(嬉しそうに、奥平の方によって行く。)

直ぐ後から、谷、両手をポケットに入れ、眉を顰めて来る。

英一 (意を迎えるように)どうだね。いい花があったかい?
谷  (英一を見、奥平を見、鋭く)花なんかないよ。昔話だ!(さっさと一人で通り過ぎようとする)

英一、不決断について行こうとする。その時、ただならない奥平の声が、彼を振返らせる。

奥平 (近づくみさ子を避けるように、二三歩動きながら)――私に構わず置いてくれ!

みさ子、驚き、良人、英一、谷と、順に顔を見る。英一、頭を動してその視線を避け、見向きもせずに彼方に行く谷の後から、救いを得(もと)めるように、蹤(つ)いて行ってしまう。みさ子、再び、良人を眺める。

みさ子 貴方――どうなすったの?
奥平 …………
みさ子 ね、どうなすったの?
韓国風俗
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